書籍「超・達成思考」

超・達成思考 - 著者:青木 仁志 -

数々の成功者が続出!

28年間続く日本一の目標達成
講座のエッセンスを大公開

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四六判・並製本・168頁
販売価格 1350円(税抜)

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INTRODUCTION - 内容紹介 -

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REVIEW - 超・達成思考を学んだ人たちのつぶやき -

※本書のメソッドの元となっている『頂点への道』講座受講生の声
15 REVIEWS

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アチーブメント出版 株式会社

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美容講師

皮膚と化粧品の成分について、お金と時間をかけて勉強してきましたが、食べていくのが難しく、収入はどんどん減っていく一方でした。
独身の40代で、これからの見通しはつかないまま。
どうしようかなと思っていました。

当時は活字中毒で、様々な書籍を読んでいました。
共通して書かれてあったのが、ゴールからの逆算、自分より優秀な人と組むこと、感謝、Win-winでした。
ところが、年齢だけ経てしまっている頭でっかちの人が、具体的に何をしたらいいかについて書かれているものはありませんでした。

物心両面の豊かな人生をいつからでも、どんな状況からでも手にすることができると聞いて、勇気づけられました。
豊かな人生を掴みたいと思いながら学びました。

一人だけで続けていくのは難しいと思い、週1回、朝7時から3人で朝の勉強会をスタートしました。

学んだことのシェア、外的コントロールを使ってしまった反省、学んで実践して成果が出たことの共有。
チャレンジしてみてできたこと、できなかったことを仲間と分かち合っていく中で、自信がついてきました。

学びを続けていけば自分の人生が良くなっていくと思うことができました。
部下や教え子ができて、いつまでも先生と呼んでもらえるように、分かち合いを自分から広めていこうと、プロスピーカーにもチャレンジしていきました。

プロスピーカーチャレンジという仕事が増えて、時間管理と行動管理をしていく中で成長しました。
自分の力で成長したのではなく、自分のことを応援してくれる人を協力者としたことで、
自分の成果を勝ち取れたとおもいます。

自然とビジネススキルが身に付き、物心両面の豊かな人生を手にすることができました。

仲間と分かち合いとシェアをすると腑に落ちるし、自分以外の人生を知ることもできます。
人の葛藤をこんな風に知ることができる場はほかにありません。
まだまだ技術を使いこなせてないなと思っているので、継続学習を繰り返していきたいです。

自信もお金も人脈もありませんでしたが、8年間、学び続けました。
原理原則を実践していく中で、物心両面の豊かな人生を手にすることができると思いました。

継続学習を信じて進んでいきたいと思います。

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靴メーカー経営

靴のメーカーをしています。
自分は優しい経営者だと思っていました。
外的コントロールを使って他人を変えるつもりなどない経営者だと思い込んでいました。

会社の壁には、「調和」「人にやさしく」「自分に厳しく」などの標語を書いて貼っていました。

ところが、そんな私は隠れ外的でした。
自分では気づいていなかっただけで、実際は自分の思い通りに他人を動かそうとしていました。

倒産危機に直面したときには正しさもありました。
正しさがいっぱいでした。

アルバイトの子には仕事を任せられないだろうと思い込んでいました。
この会社に来たなら、未熟な社員を自分のところまでどうにかして引き上げてやろうとも思っていました。

ところが、自分という経営者が成長して、社員に頼ることをしないといけないのです。
人によっては、任せてあげることが大切であるということがわかりました。
その結果、部下が成長してくれることが、自分にとってもうれしいことなのだと気づきました。

自分が人の役立っていることがうれしい。
それに気づいてからは、とにかく部下を信じて頼ってきました。また、社員の力を借りることのできる自分になりました。

「会社は社員の自己実現の舞台である」という言葉が腑に落ちました。
学んで得たものをシェアし、会社の中で朝会ができるようにもなり、素晴らしい組織ができつつあります。

これまでしてきたのは、学びを実践し、社員を信じて、頼ることです。
これからも、身近な人を信じてともに成長して、貢献し合うことを実践していきます。

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整骨院経営

家族との人間関係に悩んでいたうえ、共同経営をしていた人間に横領されて人間不信にもなっていました。

「目標達成の技術を体得することができる」と聞いて、「技術」であるならば、柔道整復師として、多くの技術を体得してきた私にもできると確信しました。そこから2年間、学び続けるうちに、経営している院の売上が高くなり、消費者金融からの借金もなくなりました。
さらに、横領をした共同経営者に対しても感謝の気持ちが芽生え、会社の権限を私が取得することで円満解決できました。
今はとても幸せです。

横領が発覚した当時は、彼に対して憎しみしかありませんでした。
しかし、選択理論とアチーブメントテクノロジーによって、「人は確かに過去の産物ではあるが、自らが選択しない限り、決して犠牲者になることはない」と学んだのです。

思い返せば、彼がいたお陰で開業できたし、大変だった開業時にも支えてもらっていました。少しずつ感謝の心を持つこともできるようになったのです。

「成功は技術」です。それを体得してからは、気が付くと他人に貢献することを考えています。

「学び続けてよかったですね」

この言葉を聞いた時に、2年間で起こった全てのことが脳裏に蘇えってきました。
その場で立ちつくしながら、涙が止まりませんでした。

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アパレル業経営

当時勤めていた会社の社長に指示されて学び始めました。
「(上辺だけの)いいこと言ってるだけやん」と思ってました。

その後も縁があり、社員研修や採用面において、会社に学びを入れていただきました。
はじめこそ、「(やっぱり上辺だけの)いいこと言ってるだけやん」と思っていたのですが、
やがて、知らず知らずのうちに選択理論を実践していることに気づきました。
その時に、腹落ちしました。

私の最終学歴は、高校中退です。
会社の採用で入ってくるのは、大卒の人ばかりなので、自分の強みは何かを考えて、マネジメントを極めました。
そして社員の力を借り、お互いの強みを引き出しながら、会社を経営してきております。
それでも、今年は過去最高の人数の離職があります。
まだまだ今も会社の体質改善中です。

外的コントロールを使ってはいけないと思って、
自分の言いたいことを言えないという状況を作っていました。

ここからさらに変化していき、今年も働きがいのある会社ランキングに入れるようにしていきます。

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製造業経営

堺にある手ぬぐいを中心に製造販売会社を経営しています。

もともとは広告代理店で営業をしていました。
なぜ手ぬぐいの仕事についたかというと、祖父から誘われたからです。
もともと手ぬぐいの製造は、伝統芸能のため、世襲制で長男が継ぐことに決まっていました。しかし、長男が病気になったため、父が引き継ぐことになったのです。
その際に、私も入社することになりました。27歳でした。

入社したときは、真赤っかの大赤字の会社でした。
父は長男ではなかったため、2つ下の従弟が後を継ぐということが決まっており、いわば中継ぎとしての役割でした。
父とともに会社を経営することになったものの、仲の良かった親戚は、口をきいてくれません。母からも、「やめとき、成果出ないと大変な目にあうで」と言われました。

業績を出す以外、生きる道はないと分かっていたので、不退転の想いで働きました。それは、父を勝たせたい、赤字の会社を父の代で終わらせたくないという思いからでした。
どうにか、6年目で黒字にすることができました。表参道にお店を出すこともできました。
しかし、人間、力を発揮するとだんだん天狗になってきます。
ますます親戚と仲が悪くなって、会社の後を継いだ従弟にとうとう解雇されました。

路頭に迷いながら、独立するか他の会社に勤めるかを考え、独立の道を選びました。
できるという自信があるだけで、人脈もお金もないところからスタートでした。

案の定、独立から3年目に数字が落ちはじめました。
そんな時に外的コントロールを使う友人が変わっていくのを見て、私も学ぶことを決めました。

はじめは、僕の選択の正しさを証明しようと思っていました。
当時の私は、「お前は間違っている」と言って間違いを直すのが正義だと思っていました。
一緒に働いてきた社員に対して、不安定な職業についてくれるだけでありがたいとは思えませんでした。

しかし、学び続けるうちに、その考えが間違いだと気づきました。
そもそも、業界全体に、職業に対する自信がないのが問題だということに、だんだんと気づいたのです。
手ぬぐいの製造は分業制なので、担当それぞれの職業観を上げ、全体でひとつの良いものを作る必要があります。それを実現するため、社員たちと4つの自信という学びを分かち合っていくと、少しずつつくるもの、売っていくものが変わりました。

まず、全英オープンに出たプロゴルファーの使う商品をつくりました。
そして、外国の方に手ぬぐいの良さをわかってもらいたいという思いから、リッツカールトンにも納品するようになりました。

すると、職人も職業に対して自信が高まってきます。自発的に、仕事がどんどんやりたくなります。
つまるところ、仕事をするうえで大切なのは、魅力的な蝶々を追いかけるのではなく、蝶々が自らやってくるような魅力を開発することなのです。

私の目標は、日本のモノづくりに元気と自信を取り戻すことです。

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保険業

2011年当時、私はコンビニや保険セールスなど仕事を転々としており、お金を稼げない時期が長く続いていました。
そんな中でも妻は3人の子どもを育ててくれていましたが、お互いストレスが溜まっては、よく喧嘩をしていました。
次男が夜、布団の中で家族写真を見ながら泣いてしまうほど、家族関係は悪化していたのです。

学ぶ中で、私の人生の目的が明確になりました。
それは、家族を幸せにしたいということです。

妻にも謝ることができ、今では良い関係を作ることができています。
仕事でも成果が出ています。これからは地域に学びを発信して、幸せな家庭を増やしていこうと思っています。

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元プロ野球監督

プロ野球の世界で1軍監督をしていたときに、2軍監督がアチーブメントを学んでいると聞いて間違いないと思いスタートしました。

選手がどのように育つかを考えたときに、自分の指導は目標から上だったなと。目的から一貫した指導をするとよくなるのではないか?そんなタイミングで4球団からオファーをいただいて、3球団は1軍。1球団は2軍。即決で2軍監督になりました。1軍の選手は1言うとすべてわかる。2軍はまだ未熟な選手がいて、この学びを試してみたいと思い、2軍を選びました。

選手が恐れをもたなくなり、積極的になって成長スピードが速くなりました。右肩上がりに成長する選手が増えました。

毎年1人ずつ個人タイトルを取ることができ、3年目にリーグの優勝。

恐れをなくすとチャレンジする。主体的にやることで成長速度が速まるかがわかりました。1軍で2年目に3勝、3年目に10勝、4年目に14勝する選手が輩出しました。

高校は全寮制で、先輩の虫の居所が悪いと後輩はサンドバック状態でした。そんなわたしも日本男子たるもの亭主関白当たり前だろという感覚で家では何もしていなかった。ゴミ出しをしていなかった。「これを俺にやらせるのか? 周りからお前がやらせてると思われるんだぞ」と女房に言っていました。

これではいけないと思い、ゴミ出しからスタートしました。以前に、妻が車でゴミを運ぼうとしていて「なんて横着な奴や」と思っていました。

自分がゴミ出しをしてみると、45リットルのポリバケツに生ごみが入っていると重いですよ。ゴミ出し一つにしても大変なんだな、車で出そうというのはわかる気がしました。洗濯もします。洗濯したら各部屋にもって行ってます。これは選択理論を学んだおかげです。

妻は5年前からゴルフに行き出して、月に7回から8回ラウンド回ってます。先日スコア78で回り、すごいと思いました。ここ2回はグロスで負けたので、女房にいいところを見せないといけないとスコア77で回り、女房がやっぱりうまいわねと一目置いてくれるようになりました。ゴルフという共通の趣味があって、録画したゴルフ番組を一緒に観ております。

配偶者に学ばせる前に、まず自分ですよ。そうすると良い関係が築けると思います。

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卸売業

カニ卸問屋のせがれとして育ちました。父からは家業を継いでほしいと言われましたが、兄がいたので、わたしは自分のやりたいことをやると宣言して、一級建築士として10年働いていました。

しかし、地域が衰退して、父の会社も衰退していったので、実家に戻って入社しました。

受講をした際に、青木社長からインターネットを活用することを学んだ。カニをインターネットで注文できる仕組みをつくりました。サービス提供し始めたときに、東京のお客様から注文をいただき、真心こめて発送しました。するとお客様から喜びのご連絡をいただきました。笑顔と真心が届けられる仕事だと思い続けています。

24時間365日、どうしたら満足いくサービスが届けられるかを考えて、3年かかったが売り上げが順調に伸びていて、1年で1億円伸びるくらいになりました。そのタイミングから社員の採用も開始し始めたが、社員がなかなか定着せず、自分の経営者としての力不足を感じた。そこで紹介されたのがアチーブメントでした。
15年前です。

継続学習していく中でも順風満帆ではなく、業績悪化していき、給与が支払えない時期もあり、やむなくリストラも行ったこともあります。自分も鬱になりながらもがいていた。ただ周りからは、社長にも問題はあるかもしれないけど、やめていった社員さんたちは、社長のところで学んだことを生かしてくれているよ。という声にも支えられて、「事実は一つ解釈は無数」と考えを整理していった。

今はネットで調べて一番に出てくるので、お陰様で売上も順調に伸びてきています。そして、札幌にはじめてリアル店舗をオープンすることができました。

借金2億円まで落ちていた時もあり、一時はこのまま続けていっていいのかと真剣に悩みましたが、地元を元気にすると続けてきてよかったです。これからも学び続けていきます。

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飲食店経営

1998年、当時は2億の借金がありそれを返済しているときに青木先生の学びに出会って、わたしの会社は大きく変わりました。

今では50店舗を展開しています。20年前も今も青木先生はまったく変わらず一緒のことを話しているので感動しました。自分はまだまだもっと勉強しないと、と思いました。家族のこととかいろいろと完了しないといけない。大切にしないといけないことを完了しないといけないと思いました。もっと自分を高めていかないといけないと思いました。

起業のきっかけは商社時代に中東に行き、なんで日本人はパスタなど欧米のものばかり食べてるんだろうと思い、お米をもっと食べてもらって日本をよくしようと思いました。

日本の農業を再生しようということで30歳で起業しました。そこで大変だったときに青木先生にお世話に本当になりました。これからも学び続けます。

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住宅会社経営

社長が旦那でわたしが専務として管理部門の責任者をしています。夫が大嫌いでした。でも社長命令ということで2016年に学び始めました。正直、嫌でした。当時はシングルマザーの方のためにも学びました。

そして「外的コントロール」という概念を学びました。これは幼少の頃からずっと使われてきた関わり方だと理解しました。

わたしは両親から虐待を受けて育ち、小学4年の時に誘拐にもあい、いじめにもあいました。当時は近所の方から後ろ指をさされて生きてきました。

「人生を変えたい!」と思い、一週間10時間の睡眠時間で何とか大学に入りました。

しかし、高3の時、肝炎で入院をしてしまいました。当時見舞いに来てくれた人は0人でした。さらに母がギャンブルで3000万円の借金。20代はお金を死ぬ気で稼ごうと思って過ごしていました。

しかし、精神的にも肉体的にも疲弊をしていたのかガンになってしまいました。もう死のうと思いました。当時お付き合いしていた8億の借金を背負っていきていた夫からは「君は僕のオアシスだよ」と言われました。わたしはこの人のためにがんばろうと思って生きていきました。

そして子どもが生まれましたが、虐待しか受けたことがないわたしはどう育ててよいかわからず、子どもを平手打ちしてしまい、いつも泣いてました。私は心から変わりたいと思い、青木社長に名刺交換の時に「外的コントロールの習慣はなくなりますか?」と質問しました。
そしたら「是非3年は学び続けて下さい」と言われました。

そのとき学び続けると決心し、書籍をすべて読んで、当時は夫が大嫌いでしたが、セルフカウンセリングを学び、夫が望んでいる事は何かを考え、感謝の言葉がけを意識していきました。

すると、夫の行動が少しずつ変わっていきました。食べたお皿をキッチンまで持って行ってくれたり、ゴミ出しをしてくれたり、夫婦関係は改善されていきました。その変化に社員みんなが喜んでくれました。

今ではセルフカウンセリングを子どもにもおこなっています。「どうなりたいの? どんな中学性になりたいの?」と関わっていくとある日、「ママ、勉強したい、私立受けたい」と言われました。娘はセルフカウンセリングを実践するなかで友だちから色々な情報を集めて願望が明確になり合格しました

同じように社員にも実践しました。5ヵ月間、契約が0件だった社員が7ヵ月で9件になり、辞めるという社員が8億の売上を上げるまでに成長してくれました。

そして最後はどうしても気持ちの整理が出来なかった、17年連絡を取らなかったお父さんとお母さんに会いにいきました。勇気を出して、訪れたときにお母さんの第一声は「どちら様?」でした。「ひろこだよ」と言うと、母は泣き崩れて「ごめんね。」と言いました。無口な父は「やっとこれで死ねる」と言っています。

この学びは、がんこさを取ってくれたのです。たった3年半でもここまで成長できます。

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整骨院経営

柔道整復師になったきっかけは父でした。父は自衛隊で、柔道の師範として子どもたちにも指導をしていました。妻との出会いがあって子どもが3人生まれて、30の時に独立をしました。次女が白血病にかかり3歳でした。6年闘病していた。家庭の中で娘も頑張っているから頑張ろうと父から承継した店舗を3店舗まで増やしました。

しかし、娘が亡くなって、どうここから生きていけばいいのかわからなくなりました。もっと娘に寄り添えたんじゃないかと自分を責めました。スタッフや家族にもつらく当たるようになりました。そのときに学び始めました。38歳のときです。

これからよい人生を歩もうと、人はその時最善を尽くしているという言葉に救われた。亡くなった娘はどういうパパでいてほしいんだろうとセルフカウンセリングをして、
再受講を繰り返し、だんだんと自分の正しさを手放せるようになった。

人はそもそも皆違って社員が集まっている。どういう社会をつくっていこうかというベクトルに変わった。スタッフは最高でも5年経つと独立していく。今は8年目、9年目のスタッフがいます。

学び始めて4年経ったとき、人はどこからでも誰でも必ず良くなれると気づきました。そのあとにずっと近寄れなかった娘の机に触ることができた。娘の引き出しの中に自己紹介カードがあって、宝物は「家族」と書いてあった。自分も宝物なんだと思った。もっと自分を大切にしようと思いました。自己愛の本質に気づきました。身近な人、とくに妻との関係がよくなり、子ども、社員との関係もよくなりました。

自分がどうなりたいかセルフカウンセリングできていないと、人には使えない。自分を探求することをやめない。毎日しています。180度人生が変わりました。

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美容クリニック経営

2000年にクリニックを受付2名、スタッフ2名から日本一になることを決めて、スタートしました。当時の美容医療はとても高くて、両脇の脱毛で100万円とかしました。こんなにはっきりと効果が出て、喜ばれる治療はないと思ったのですが、高すぎて普通の人は体験できない。

松下幸之助さんの水道哲学を知って、普通の人にも届く、全国民に届ける。普通の主婦が、美容医療を継続的に受けられる世の中を作ろうと決めて、スタートしました。

2009年青木先生に出会いました。始めの10年は休みもなく、連休ってどういう気持ちなんだろうと。連休は、妄想の世界でした。自分が頑張るという経営スタイルでしたが、クリニックが増えていくにしたがって、自分の背中を見せられなくなってきた。

もっと人に伝える力をつけないといけないという思いで、結婚式のスピーチも話せないくらいだったんです。これを克服したいと思って、ある人に相談したら、すごく良いセミナーがある。そこから、経営の講演もできるまでになりました。

それまでも色々な研修を受けてきました。結構気合系の研修もたくさん行きました。確かにいくと、テンション上がる。でもシューっと下がっていく。

今でも続いているのは、アチーブメントだけなんです。アチーブメント、青木先生の教えを継続しているのは、原理原則にあっているから。原理原則にそぐわないことは長続きしないし、合っていることは繁栄する。
すごくシンプル。

死ぬまでにやりたいことを明確にする、そこに至るためにやるべきことをかく、そしてそれを毎日チェックする。これを手帳で管理していく。これだけなんです。毎日〇×をつけてます。

わたしは12回目の受講ですが、毎回毎回、自分が抱えている課題によって受け取るものも変わりますし、青木先生の講義もどんどん変わってきています。

継続することによって、身になっていく。座右の銘は、「継続は平凡を非凡に変える」つまんないことでも、ずっと続けられる人は最後に勝つと思うんです。

0.1%の成長を馬鹿にしていると、大きなリターンは得られない。

誰にでもできることだと思うんです。これを、1年2年足った時に、僕の周りで続いている人は本当にいないんです。

諦めない、続けるということが、本当に重要なことだと思うんです。

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歯科衛生士

12年前。とにかく幸せになりたくて学び始めました。家庭環境の問題、両親の離婚、喧嘩がきっかけでいつも不幸感を抱えていました。とにかくお金持ちになりたかった。この不幸感を親のせい、環境のせいにしていた。成果の出ている人たちは恵まれた環境で育ってきたんだとも思った。そうした人たちの助言も、なんでこの人たちに私の人生を決められなきゃいけないのと思った。

青木先生の言葉で、「人は最善を尽くしている」という言葉を聞いたときに、両親も知らない中で最善を尽くしていたのだと赦すことができた。そこから自分、両親を主語にしてセルフカウンセリングを繰り返しました。なんの制限もなければ、私は何をしたいのだろう、と考えたときに出てきたことは、「安心感溢れる幸せな家庭を築く」こと。仕事では「歯科医院を開業する」と28歳で開業すると決めました。

選択理論を学ぶことで親の痛みを知ることができた。母は21歳で私を生んでくれて、妹が2人います。3人の子どもを育ててくれました。父も職場で葛藤がありながら、最善の行動を選んでいたのだと知りました。今では、両親にとても感謝しています。

12年間学んでいたのですが、実は2年間サボっていた時期があります。仕事で少しうまくいっていたときだったんです。

仕事では成果が出ていたが、人間関係がうまくいっていなかった。お客様から「あなたは押しが強いから担当を変えてほしい」といわれることもあった。そんなとき学び直して、自分の大切にしているものがあいまいになっていたことに気づきました。

私の学びの一番の価値は人生の目的が明確になったことです。人生理念に愛、感謝、希望という言葉を置いています。この目的を元に、何事もあきらめないという気持ちを持ち続けることができた。歯科衛生士で起業することは前例がないからなかなか受け入れてもらえなかった。女性だから、歯科衛生士だから、前例がないからと散々断られた。しかし、あきらめませんでした。すると28歳で起業を実現しました。

20年以上も会っていなかった父親とも再会することができた。父がFacebookで私を探してくれて、私の動向を見てくれているんです。父の友達は私と妹だけです。ある日、お店の看板のところに怪しい人が立っていますとスタッフから言われました。メッセンジャーが急に送られてきて、「大きくなったな」と連絡をくれたんです。仕事終わりまで待ってくれていて、パートナーと一緒にご飯に行きました。父からはすっかり忘れられてしまっていたと思っていましたが、「ひと時も忘れたことはない」と父から言ってもらった時はとても嬉しかったです。親はいつまでも親なんだと感じました。

人生には2回誕生日があると青木社長に教わりました。1回目は生まれたとき、2回目は人生の目的が明確になったとき。私は、人生の目的が明確になって、大きく変わりました。学び続ける過程で見える世界がどんどん変わっていきました。

私の周りで10年以上学び続けている方で良くなっていない人はいません。これからも学び続けていきます。

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税理士

15年前に開業したてのときに、自己啓発が嫌いだと仰っていた社長からの紹介で受講しました。その方の本棚には毎月本が増えていくんです。青木さんの本でした。この人だけは違うんだと。

はっきり成果がでました。それは、家族関係です。開業したて半年で子どもが生まれました。ある日、少し気持ちがしんどかったんです。その日に限って、リビングに電気をつけていました。いつもは暗いのにです。その時ふと思いました。自分ががんばればがんばるほど、家を守れると。奥さんを守れると。そうゆう肯定的解釈ができるようになりました。

あとは、親孝行です。顧問先も増えて順調でした。親父は有名な経営者です。凄く倹約家で、小3の頃から倹約の教育を受けてきました。親父に最後引退するときにプレゼントを買ってあげることにして、車が欲しいと言われ、兄と一緒にサプライズで用意しました。

父の大好きなみかんのかごの下に、車の鍵を忍ばせて、ガレージの車をごっそり入れ替えておきました。大感動になるかと思いきや、親父の反応は普通でした。僕たちは大号泣でした。しかし、親父は洗車全くしない人でしたが、その車だけは週に一度洗車していたことを母から聞きました。

会計事務所で10年間離職者ゼロでした。凄いことなんです。ただ、大事な幹部の結婚退職を機に、離職が始まり、20名中19名が辞めました。外的な言葉は使っておらずでしたが、わたしの態度や表情にご紹介をもらえないスタッフ、成長できていないスタッフへの不満がにじみ出ていました。だから、退職者が出ました。学んで出来ていたつもりだったのですが、じつは裏で幹部が僕の外的な言葉を再定義してくれていたのです。

幹部に支えられていたことに気づきました。

そこから、気持ちを入れ替えました。改めて理念の愛行動感謝を見つめなおしました。言葉は全く変わっていません。ただ、意味づけが変わりました。

親父がガンで、最後はモルヒネで何とか意識が朦朧としている感じでした。最後に言った言葉は「静子(奥様)と一緒になれて良かった」でした。私は感謝される人になりたいと思っていたのですが、親父は感謝されるというよりは感謝する人でした。感謝されるというのは、コントロール外にあることに気づきました。感謝することは自分のコントロール内です。ここで感謝の定義が変わりました。

わたしには娘がいます。大学で頑張っています。わたしの教育のおかげ、ではなく、妻が再定義してくれていたおかげでわたしの存在が立っていたのです。夜遅くに帰宅するわたしを、「男の人はこうゆう付き合いが大事なのよ」と娘に伝えてくれていたのです。

10年間幹部が会社でやってくれていました。家では奥さんがやってくれていました。パワーパートナーが経営者を立たせてくれているのです。パワーパートナーの2人が一緒に考えてくれているので、気が楽です。ボイスチェンジで助かっていますが、これは仕事だと顧問先に対してボイスチェンジをしてあげることが本来の我々の仕事だと思います。学んだことで解釈の質は明らかに変わりました。ただ継続することに大きな大きな価値があります。

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デザイナー

コストを下げてよいデザイナーを雇ってクオリティの高い家を提供する会社を創業しました。厳しくすることが愛だという信念を持っていたら、11人中10人が辞めました。笑えません。

おしゃれな事務所、プライド持てる仕事。寝れない夜が続き病院に行ったら自律神経失調症と言われました。その時に来たくて来たわけじゃないけど、このメソッドに出会いました。講座では成果を出している人の話は直視できないぐらい悔しさとか、つらかったです。

とにかく学んでこんなに変わると思いませんでした。青木先生がトップが学び続けて上に上がらなければ下の者は上がれない。社長の器以上に会社は大きくならないと聞いて、部下のためにと思いながらできていなかったことを反省。事務所に戻り残ってくれたメンバーに謝罪と感謝を伝えました。

「不甲斐ないおれなのについてきれくれてありがとう。もう一回頑張るから、もう一回支えてください」と言いました。会社が良くなりました。あのままいってたら人を傷つけ自分も傷つける人生だった。

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